11月の法語から
11月も30日。
「日にちの立つのは早いなあ」と。そして「年を取るに従って時間が早く過ぎていく」と挨拶の中で出てきます。11月は、お取り越の日々です。
ご仏壇に座し、お参りをすると法話カレンダーが掲げてあります。
日々の生活の中でふと気づかされるのがカレンダーの言葉でもあります。
2ヶ月前のことです。
9月の下旬に旧宮内小学校での会議そして作業を終えて井戸江峡のせまい道を帰っていると、お地蔵様が目に入りました。
この道を通るたびに目に入るお地蔵様ですが、その日は彼岸花が目にとまりつい車を止め見入りました。紅白の彼岸花がお地蔵様の前で咲いていたからです。
今は、宮内小学校が閉校になり子ども達が歩いて登下校することはありません。車社会です。この道を歩く人はまずいません。
その日は、季節の彼岸花が地蔵菩薩を荘厳していました。それは、人の行き来があろうとなかろうと春夏秋冬、幾多の季節の中で多くの人を見守ってきている姿です。
そんな印象を持った路傍のお地蔵様でした。
11月のカレンダーの法語には
「拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている」
と記してあります。この言葉は、東井義男先生の言葉です。
ある日、ふと、こちらを拝んでいるお地蔵様に気づかれた東井先生は、こちらが気づこうが気づくまいが、いつも拝んでくださっているものの存在に気づかれ、その働きこそがアミダであったといただかれたのです。
つまり、アミダブツというはたらきは、色も形もなく、よって、心で感じることも、言葉で言い表すことも難しいとおっしゃっておられるのです。でも。何とか言い表そうとして、日なり水なり風なり大地なり火なり・・・真実明、畢竟依、平等覚、大応倶・・・帰命盡十方無碍光如来、南無不可思議光如来、無量寿如来、・・などという表現を試みておられます。でも、なかなか難しい。そこで、インドの言葉である「アミターバ」(無量寿)「アミターユス」(無量光)をそのまま音写して、「あみだぶつ」と言い、「ナンマンダブ」と称えるのです。
先生は、
拝んでいるつもりが、実は、遠い昔から拝まれてあったいのちであった、自分の力では、何一つ自由にできない自分であったと気づかされていく、生まれることも、年を重ねることも、拝まれていた私でありました。生まれてからも、拝まない時も拝まれていた私でありました。
と結んでおられます。
忙しい、忙しいと明け暮れている私たちに
改めてこの法語が語りかけています。
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