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正法寺の歴史

​ 正法寺は、寛永12年に建立されました。その歴史を遡ると、甲佐神社にたどり着きます。

 実は、甲佐神社と当正法寺は兄弟関係にあります。えっ、どうしてと思われたことと思います。

 では、そのいわれをお話していきます。

 甲佐神社は、天正年間に小西行長に滅ぼされました。その時の神職が、赤星一太輔です。一太輔には、弟がありました。兄の一太輔は、小西行長か滅ぼされた後、出家します。天台宗の僧侶になり法名を智選といいます。出家後は、居を安平に構えます。今も安平に寺の跡として記念碑があります。

 小西行長の治世の後、加藤清正が、入城し熊本を治めます。加藤清正は、緑川改修で鵜ノ瀬堰を造営するに当たり、甲佐神社に祈願に詣でます。しかし、そこは神職はおりません。そこで、家来の者よりの口添えで、赤星一太輔に神職の声がかかります。しかし、一太輔は、出家しており、神職は弟が継ぐことになりました。

 一太輔には、一人息子の赤星清太輔がおりました。清太輔は、慶長三年頃数人を引き連れて有安村に移り住みました。当時有安村には百姓が57件ほどいましたが、土地は荒れておりました。

 移住後、清太輔らは農業に従事し懸命に働き、次第に人望を得、田畑も広げていきました。

 その後、清太輔は浄土真宗に帰依し、当地に浄土真宗の寺院を建立することを発願し、願い出て、寛永12年に開基しました。当時は、熊本順正寺の末寺でした。清太輔は出家後、法名を慶智と名乗りました。

 歴代住職 

  一世 智選  二世 慶智  三世 慶思

  四世 慶天  五世 慶明  六世 慶忍

  七世 慶浄  八世 誠言  九世 大喜

  十世 密通 十一世 法久 十二世 観雄

 十三世 眞晃 十四世 法眞 

   

 正法寺の宝物
 
正法寺の歴史

​ 正法寺は、寛永12年に建立されました。その歴史を遡ると、甲佐神社にたどり着きます。

 実は、甲佐神社と当正法寺は兄弟関係にあります。えっ、どうしてと思われたことと思います。

 では、そのいわれをお話していきます。

 甲佐神社は、天正年間に小西行長に滅ぼされました。その時の神職が、赤星一太輔です。一太輔には、弟がありました。兄の一太輔は、小西行長か滅ぼされた後、出家します。天台宗の僧侶になり法名を智選といいます。出家後は、居を安平に構えます。今も安平に寺の跡として記念碑があります。

 小西行長の治世の後、加藤清正が、入城し熊本を治めます。加藤清正は、緑川改修で鵜ノ瀬堰を造営するに当たり、甲佐神社に祈願に詣でます。しかし、そこは神職はおりません。そこで、家来の者よりの口添えで、赤星一太輔に神職の声がかかります。しかし、一太輔は、出家しており、神職は弟が継ぐことになりました。

 一太輔には、一人息子の赤星清太輔がおりました。清太輔は、慶長三年頃数人を引き連れて有安村に移り住みました。当時有安村には百姓が57件ほどいましたが、土地は荒れておりました。

 移住後、清太輔らは農業に従事し懸命に働き、次第に人望を得、田畑も広げていきました。

 その後、清太輔は浄土真宗に帰依し、当地に浄土真宗の寺院を建立することを発願し、願い出て、寛永12年に開基しました。当時は、熊本順正寺の末寺でした。清太輔は出家後、法名を慶智と名乗りました。

 歴代住職 

  一世 智選  二世 慶智  三世 慶思

  四世 慶天  五世 慶明  六世 慶忍

  七世 慶浄  八世 誠言  九世 大喜

  十世 密通 十一世 法久 十二世 観雄

 十三世 眞晃 十四世 法眞 

   

 正法寺の宝物
 
正法寺の歴史

​ 正法寺は、寛永12年に建立されました。その歴史を遡ると、甲佐神社にたどり着きます。

 実は、甲佐神社と当正法寺は兄弟関係にあります。えっ、どうしてと思われたことと思います。

 では、そのいわれをお話していきます。

 甲佐神社は、天正年間に小西行長に滅ぼされました。その時の神職が、赤星一太輔です。一太輔には、弟がありました。兄の一太輔は、小西行長か滅ぼされた後、出家します。天台宗の僧侶になり法名を智選といいます。出家後は、居を安平に構えます。今も安平に寺の跡として記念碑があります。

 小西行長の治世の後、加藤清正が、入城し熊本を治めます。加藤清正は、緑川改修で鵜ノ瀬堰を造営するに当たり、甲佐神社に祈願に詣でます。しかし、そこは神職はおりません。そこで、家来の者よりの口添えで、赤星一太輔に神職の声がかかります。しかし、一太輔は、出家しており、神職は弟が継ぐことになりました。

 一太輔には、一人息子の赤星清太輔がおりました。清太輔は、慶長三年頃数人を引き連れて有安村に移り住みました。当時有安村には百姓が57件ほどいましたが、土地は荒れておりました。

 移住後、清太輔らは農業に従事し懸命に働き、次第に人望を得、田畑も広げていきました。

 その後、清太輔は浄土真宗に帰依し、当地に浄土真宗の寺院を建立することを発願し、願い出て、寛永12年に開基しました。当時は、熊本順正寺の末寺でした。清太輔は出家後、法名を慶智と名乗りました。

 歴代住職 

  一世 智選  二世 慶智  三世 慶思

  四世 慶天  五世 慶明  六世 慶忍

  七世 慶浄  八世 誠言  九世 大喜

  十世 密通 十一世 法久 十二世 観雄

 十三世 眞晃 十四世 法眞 

   

 正法寺の宝物
 
​正法寺の歴史

​ 正法寺は、1635年(寛永12年)に建立されました。その歴史を遡ると、甲佐神社にたどり着きます。

 実は、甲佐神社と当正法寺は兄弟関係にあります。えっ、どうしてと思われたことと思います。

 では、そのいわれをお話していきます。

 甲佐神社は、戦国時代まで大きな力を持っていました。そのため小西行長と天正年間に戦になりました。その時の神職が、赤星一太輔です。一太輔は、小西行長との戦いの後、蟄居を命じられ、出家します。天台宗の僧侶になり法名を智選といいました。出家後は、居を甲佐町宮内の安平に構えました。

 小西行長の治世の後、加藤清正が、入城し熊本を治めることになりました。加藤清正は、緑川改修で鵜ノ瀬堰を造営するに当たり、甲佐神社に祈願に詣でました。しかし、そこには神職はおりませんでした。そこで、家来の口添えで、赤星一太輔に神職の声がかかります。しかし、一太輔は、出家しており、神職は弟が継ぐことになりました。

 一太輔には、一人息子の赤星清太輔がおりました。清太輔は、1598年(慶長三年)頃ゆかりのある人を連れて有安村に移り住みました。当時有安村には農家が57件ほどありましたが、土地は荒れておりました。

 移住後、清太輔らは農業に従事し懸命に働き、次第に人望を得、田畑も広げていきました。

 その後、清太輔は浄土真宗に帰依し僧侶の資格を得ました。清太輔は、農業に従事しながら教えを広めるとともに、当地に寺院をぜひ建立したいと願うようになりました。そして、多くの年月の末、ようやく1635年(寛永12年)に、熊本順正寺の末寺として開基しました。清太輔は出家後、法名を慶智と名乗りました。このように、正法寺は甲佐神社と兄弟関係にあたります

 さて、それから正法寺は400年ほどの歴史を経てきました。その間に、2度(江戸・明治時代)にわたり大火に見舞われました。それでも、ご門徒と寺族が心血を注ぎ再建し、今日に至っています。現在の本堂は、1874年(明治10年)の西南戦争で消失した後、1884年(明治20年)に再建され、1988年(昭和63年)に修復されたものです。

 歴代住職 

 一世 智選  二世 慶智  三世 慶思

 四世 慶天  五世 慶明  六世 慶忍

 七世 慶浄  八世 誠言  九世 大喜

 十世 密通 十一世 法久 十二世 観雄

 十三世 眞晃 十四世 法眞 

   

    (甲佐町町史より引用改変)

甲佐町宮内上揚にある甲佐神社。

​阿蘇神社の二の宮に当たる由緒ある神社です。当寺は、ここからでた赤星清太輔により開基されたものです。

ご本尊の阿弥陀如来様です。約四百年程前に制作されました。作者不詳

上の四幅〈聖徳太子・親鸞聖人・蓮如上人・七高僧〉の掛け軸は、約三百年程前に本山より時の住職に賜わったものです。

南画家で熊本三風のお一人でご門徒の本田景風氏が昭和三十八年大法要(住職継職)を記念し、賜わった水墨画です。

日展画家の本田建二郎氏(本田景風氏のご子息)が昭和六十三年本堂修復記念として描かれた浄土真宗の信者の歩む姿をあらわした『二河白道』の油絵です。

素川林元氏(明治26年)が本堂の襖に描かれた『牡丹と孔雀』です。

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